LOG IN

役割のない自分でいる時間

by 沓澤 優子

人はみんな、たくさんの役割を持って生きている。
初めは家庭における「お兄ちゃん」と「かお姉ちゃん」とか「おチビちゃん」とか。
学校に上がると「保健係」とか「飼育係」、「マネージャー」「生徒会長」など多種多様で、
もっと成長すると「彼氏」や「彼女」という甘美なのも加わる。
親から独立したら「夫」か「妻」になり、「お父さん」「お母さん」になる人も。
社会ではそれまでの横展開のバラエティから急転し、「課長」やら「店長」、
「執行役員」や「社長」といった、縦軸の役割が生まれる。

「何ものでもない自分」

大人になるにつれ、それを確認できる瞬間は少ない。
みんな何重もの役割を負って、とっても忙しいので。
忙しさに進んで身を投じるマゾ気のある自分でも、
時折、それを取り戻すきっかけがある。
たいていは窓の外を眺めているとき。
木に鳥がやってきて、他の鳥と駆け引きするのをただ目で追ったり、
蜘蛛の仕事の緻密さに心を奪われているときだ。
目には無作為な美しいものが映り、その存在のお陰で心は無を招き入れる。
埃っぽさのような想像上の匂いを伴ってその再会を楽しむと、不思議と心が軽くなっている。
たとえ直前の思考がどんなに悲観的であっても

なんだ、なんてことないな。

と諦めにも少し似た、不思議な楽観が生まれるのだ。
「救い」というものが本当にあるとすれば、それはこれのことじゃないかと思う。

私たちは、どんな虫、どんな草とも、祖先を共有している。
自然に近寄ると、40億年という想像が難しい長い長い年月、
祖先から途切れることなく命を受け継ぎ続けた末裔として
今ここに存在している自分の絶対さがわかる。

著名コメディアンの名付けのとおり「生きてるだけで丸儲け」、だ。
大人になると役割を重んじるあまり、それが自分の存在意義だと思い込むフシがある。
でも役割を持たなくても意義はあるもんね。

この場所にカフェをつくる背景には、蔵の存在もちろんだが、庭の存在も大きかった。
家人が代々大切にしてきたという、手入れが不足しても品格を失わない庭。
自然のそのままの様子に心を配り、何でもない自分を取り戻し、安堵する時間。
役割が上手く果たせなくたって、そこまで大きな問題じゃないと立ち戻る時間。
そんな過ごし方をしてもらえたらいいなと、この庭を見て思ったのだった。



沓澤 優子
OTHER SNAPS